2017年

2017年

12月

19日

思い出の紅白歌合戦

壁の飾りをかえました。年末にふさわしい曲です。
森進一「襟裳岬」 作詞 岡本おさみ、作曲 吉田拓郎
第25回NHK紅白の大トリの曲です。
昭和49年の大晦日、眠いのを我慢して始めて最後まで紅白を見たのを思い出します。

記録を見るとこの年は豊作で、初出場だけでもこんなに名作揃いです。
 山口百恵「ひと夏の経験」  西城秀樹「傷だらけのローラ」
 桜田淳子「黄色いリボン」  中条きよし「うそ」
 あべ静江「みずいろの手紙」 殿さまキングス「なみだの操」
 ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」 海援隊「母に捧げるバラード」
 小坂明子「あなた」 渡哲也「くちなしの花」
ついでに山川静夫アナウンサーが初の白組司会!(注1)
「青春の旅は遠く哀しく、いつか思い出の海へと還ってゆきます。1974年のさすらいの記憶をこの一曲に込めて、森進一、白組の襟裳岬(注2)を聴いていただきましょう」と山川アナウンサーの名調子で森さんが登場しドラマチックに歌います。そして藤山一郎先生指揮する「蛍の光」でフィナーレでした。
この頃の紅白は豪華でした、演奏は生オーケストラでしかも紅白に一組ずつ付き、衣装は女性はドレスか着物、男性はタキシード・フロックコート・燕尾服の洋礼装や羽織袴で華やかさを競いましたね。(院長)

 

(注1)紅組司会は佐良直美さん
(注2)同年は紅組のトリも「襟裳岬」という同名の別の曲でした。島倉千代子さんが歌いました。
(参考文献)合田道人「怪物番組 紅白歌合戦の真実」幻冬舎 2004

 

 ←前の記事「幸せの左富士と右富士」 「他人の空似」次の記事→

2017年

12月

06日

幸せの左富士と右富士

幸せの左富士・右富士
 学会で東京出張しました。帰りの下り新幹線で海側A席から珍しい「左富士」を見ることができました。上りなら「右富士」ですけど。
 新幹線と富士山と言えば 山側E席から見えるおなじみの姿ですが海側A席から見える場所があるのです。上り列車なら大井川の3分後に日本坂トンネルを抜けた直後から、下りだと静岡駅通過の1分後、安倍川を渡った直後から、30秒間だけ見えます。
 この区間だけ線路がほぼ南北に走行するため、海側座席から約50km離れた富士山が見えるのです。気象条件が揃った快晴の日だけ一瞬の幸せです。もう新幹線で昼寝できません。  (院長)

 左富士のいわれは江戸時代からあります。東海道五十三次「南湖の左富士」(現在の茅ヶ崎市)と「吉原左富士」(現在の富士市)の2か所のみであり広重の絵に描かれています。東海道で江戸から京に上ると右手に富士山が見えるのが普通ですが、道の進む方向によって偶然左側に見える富士山を「左富士」といわれました。

 

←前の記事「少女マンガが教養だった頃」 「思い出の紅白歌合戦」次の記事→

2017年

11月

21日

少女マンガが教養だった頃

不思議なことに、私が中高生だった頃、「少女マンガを知っていることが教養」とみなされていました。自分の学校だけかと思っていたら、意外にも超進学校灘高出身の先輩も同じだったのです。あの時代全国で散発的にそんな空気があったのでしょう。
漢籍、文学、哲学を根幹とする昔からの教養主義が昭和40年代に衰退し、代替教養としてのサブカルチャーが浸透しはじめた時期だったのではないかと推察しています。
調べてみますと、昭和49年の宝塚歌劇「ベルばら」(写真右)を契機に少女マンガへの世間の注目が高まり、当時アンダーグラウンドだった文学性の高い作品群(萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、岡田史子etc)が評価されました。少女だけのものであった少女マンガは文化として発掘され広く読まれるようになったのです(1)。私も当時せっせと古本屋に通ってマンガを探しましたよ。文学はまるっきりダメでしたけど。
新しい表現法と難解なテーマで考えさせる文学系作品が増える一方、その揺り戻しとしてわかりやすいドラマチックな物語に回帰する動きもありました。ちょうどその代表が「ガラスの仮面」(昭和51年、写真左)と位置づけられます。
当時もそうでしたが今読んでも大げさな話と画表現でドラマチックすぎるところが魅力です。TVでも特集していましたがあらゆる心情を白目で表現してしまうのも美内すずえ先生の味であります。読み始めるとやめられないんですよね。 (院長)

 

参考(1)米沢嘉博 「戦後少女マンガ史」第7章-70 1980年初出

 

←前の記事「壁の飾り 岩谷時子の世界」「幸せの左富士と右富士」次の記事→ 最新ブログ記事→

2017年

11月

01日

岩谷時子の世界/ピンキーとキラーズ恋の季節

壁の飾りをかえました「恋の季節」ピンキーとキラーズ 昭和43年
作詞 岩谷時子 作曲 いずみたく 昭和43年のレコ大新人賞、第19回NHK紅白出場曲
子供の頃は黒服・パンタロン・山高帽・ステッキの姿が面白くて、踊りを真似したものです。若い時分は曲のアンサンブル、特にベースとフルートとコーラスが好きでした。
大人になってからは、岩谷時子の詩の世界に引き込まれました。僕は文学がかなり苦手なのですが、岩谷さんの詩をきくと、研ぎ澄まされた少ない言葉で描かれる世界に素直に感動するのです。分析的に表すのは野暮と承知で申しますと、その言葉を用いることで、附随する景色なり状況が空間的・時間的広がりをもって自動的に浮かぶ、そんな言葉が置いてあるのです。
言葉を選ぶ感性が尋常ではありません。ご本人は「一行でも二行でも、もっと良い言葉に直せないかと思って毎日過ごしているわけですから」と語っていたそうです(1)。

(院長)

(1)田家 秀樹 「歌に恋して 評伝 岩谷時子物語」武田ランダムハウスジャパン (2008)

 

←前の記事「いいじゃないの 幸せならば」「少女マンガが教養だった頃」次の記事→ |最新ブログ記事→

2017年

10月

18日

いいじゃないの 幸せならば

壁の飾りをかえました。

「いいじゃないの 幸せならば」昭和44年 歌 佐良直美、詞 岩谷時子、曲 

いずみたく。昭和44年のレコード大賞受賞、第20回NHK紅白出場曲です。
この年からレコ大は大晦日開催になり、レコ大から紅白への会場移動が始まります。この年の会場はレコ大は日比谷帝劇、紅白は東京宝塚劇場でした。48年から紅白は渋谷NHKホールに移ります。

さてこの歌は、岩谷時子の詩世界が聴きどころであります。刹那的な虚無感を表現した歌詞が大人っぽくて深いです。そして歌う佐良さん、この人は顔が無表情でニヒリスティックな雰囲気があり、よくマッチしていますね。
平成の現代と異なる、この時代独特の空気が伝わってくる曲です。後世「時代の雰囲気が、抑制された曲調や演奏、歌唱と一体化されてクールに醸し出されている。」などと紹介されています(1)。この頃国内では学生運動、海外ではベトナム戦争などあり、虚無感と厭世感があふれていたのでしょうか。

単純な僕は「色々あったかも知れんけど、まあええんちゃいますか、今本人が幸せやったら」くらいにとらえてしまうのです。(笑)        (院長)

(1)高 護 (2011) 歌謡曲-時代を彩った歌たち.岩波書店, pp.74-8

 

←前の記事「腕の傷痕で年齢がわかる~」「壁の飾り 岩谷時子の世界」次の記事→ |最新ブログ記事→

2017年

9月

20日

腕の傷痕で年齢がわかる~予防接種に歴史あり

レコードを見ていて気付いたことがあります。
ランちゃんとスーちゃんの左腕に傷痕が写っています。ある世代なら、種痘かな!と思い浮かべるでしょう。でもよく考えると違うのです。
種痘は恐ろしい感染症・天然痘を防ぐ予防接種です。明治42年以来種痘を義務化した結果、天然痘は激減し、昭和31年以降国内の発症はなくなりました。昭和51年に種痘義務化は中止、昭和55年世界中の天然痘が撲滅され種痘は廃止されました。
1歳と6歳頃に接種しますから、昭和49年以前生まれは痕があり、昭和50年以降生まれの人にはないことになります。ですから種痘はよく年齢当てに使われます。

ただ例外を除き右腕接種だった(1)ので、この場合左右が違います。
では写真の傷痕は何か?。他に腕に痕を残す予防接種といえばBCGです(2)。調べてみると、昭和42年より前は皮内注射で左上腕に接種していたことがわかりました(3)。これは種痘に似た円形痕が残ります。そして昭和42年以後は現在と同じ管針法、9個の点状痕が残るいわゆるハンコ注射にとってかわったのです。
伊藤蘭さんは昭和30年、田中好子さんは昭和31年生まれ、左腕の痕はBCG皮内接種なのでしょう。そして写真に写っていない右腕には種痘の痕があるはずです。

予防接種にも歴史がありますね。(院長)

 

(1)接種部位は厚生省「予防接種実施規則」で昭和33年「右上腕伸側又は右肩部」、その後昭和39年に「原則として右上腕伸側」と決められていました。それ以前も同様に行われていたと推測できます。
(2)BCGは結核予防を目的としたワクチンです。
(3)厳密にはBCGの接種部位は「上腕」とされ、左右指定はありませんでした。種痘が右腕指定なので自動的にBCGは左腕になったのでしょう。

 

←前の記事「江戸時代の感染症」|「いいじゃないの幸せならば」次の記事→ | 最新ブログ記事へ→

2017年

9月

06日

江戸時代の感染症

江戸東京博物館を見学してきました。両国国技館の隣です。江戸時代の風習や文化の展示が豊富でとても楽しい施設です。
仕事柄、医療関連の展示をチェック、江戸時代の医学について勉強しました。

江戸時代には麻疹、天然痘など感染症の大流行が何度もあったことがわかります。感染症で多くの人々が命を落としていたのです。
調べてみると江戸時代の間に麻疹は13回流行(25-30年に1度)、天然痘は28回流行(15-20年に1度)があったそうです。麻疹の致死率は3%程度とみられています。また天然痘は致死率20-50%と大変恐ろしい感染症でした。現代では予防接種のおかげで天然痘は根絶、麻疹は激減しました。
他にも有名な杉田玄白・前野良沢らによる「解體新書」の複製本の展示もありました。(院長)

 

←前の記事「夏休みももう終わりですね」次の記事「腕の傷痕で年齢がわかる」→最新ブログ記事→

2017年

8月

23日

夏休みも もうすぐ終わりですね

「夏休み」 吉田拓郎 昭和46年発表

クリニックの壁の飾りをかえました。

みなさま今年の夏はいかがお過ごしでしたか。楽しかったですか。

拓郎さんの「夏休み」は夏の終わりに聞きたくなりますね。

楽しかった夏休みを思い出してください。(院長)

 オリジナルはライブ・アルバム「よしだたくろう オン・ステージ ともだち」昭和46年収録、スタジオ録音はLP「元気です」昭和47年収録、写真のEPレコードは後年昭和53年の再発版EPです。

 

←前の記事「暑中お見舞い申し上げます」次の記事「江戸時代の感染症」→最新ブログ記事→ 

2017年

7月

19日

暑中お見舞い申し上げます

暑中お見舞い申し上げます
昭和52年6月発表、この後すぐ7月17日キャンディーズは解散宣言をします。

あんなに人気なのに何で辞めるんやろ?と、不思議に思ったことを覚えています。

「普通の女の子に戻りたい」を理解するには小学生ではまだ早かったのですね。

 

暑さ厳しき折、皆様の御健勝と御自愛をお祈り申し上げます。 (院長)

 

←前の記事「梅雨らしくなってきました」次の記事「夏休みももうすぐ終わりです」→最新ブログ記事→

2017年

7月

05日

梅雨らしくなってきましたね 雨の御堂筋

雨が多くなりようやく梅雨らしくなってきましたね。壁の飾りをかえました。
「雨の御堂筋」 欧陽菲菲 昭和46年 作曲はベンチャーズです(1)
大阪のキタとミナミを結ぶ御堂筋は街路樹と高さの揃ったビルの美しい街並みで有名です。ここが南向き一方通行になったのは昭和45年、この歌の1年前です。だから「あなたをたずねて南へ歩く」(2)のは当時新しい感覚だったことでしょう。

欧陽のたどたどしい日本語がエキゾチシズムを醸し出し、大阪なのに泥臭くないモダンな街の雰囲気を感じさせます。
その1年前昭和44年には大阪市電が全線廃止、阪急梅田駅宝塚線が現在の高架ホームに移転(3)。万博を機に大阪の風景が着々と変化する時代の歌です。(院長)


(1)純粋米国人なのになぜか日本的メロディーを編み出す、ベンチャーズ歌謡と呼ばれています。
(2)夜の御堂筋を南向きに歩くと、赤色のテールランプが無関心に次々横を過ぎ去ります。交差点にはずらっと光の溜り場ができます。6車線一方通行のなせる情緒的光景です。両側通行や北向きだとこうは行きません。
(3)昔、梅田駅は今の阪急百貨店1階の場所にありました。

 

←前の記事「若き日の東海林太郎」「暑中お見舞い申し上げます」次の記事→ | 最新ブログ記事へ→

2017年

6月

21日

若き日の東海林太郎

東海林太郎 「上海の街角で」 昭和13年
先日、あるクラシック音楽の大家の先生と古い歌謡曲についてお話しする機会に恵まれました。先生は「僕は昔、東海林太郎が好きだったね」と仰いました。
そう、院長もよく聴いたものです。東海林太郎さんは甘く透き通った声で情感たっぷりに歌い上げる歌唱が魅力です。とくに、澄んだ高音から一気に低いバリトンへ切り替わる歌い回しは聴かせどころです。

東海林さんは、満鉄に就職するも音楽への夢を捨てきれず退職、アマチュアとしてクラシック声楽家を目指し、昭和8年日本音楽コンクールで入賞。その後流行歌に転向しました。ホワイトタイの正装に直立不動で熱唱する姿が印象的でした。真剣勝負で歌と対峙するためだそうです。こんな歌手はもうでてこないのでしょうね。

前の歌手なんて何のこっちゃわからない皆様へ;写真左の眼鏡のかたが東海林太郎さんです。右は映画俳優 佐野周二さんで、関口宏さんの父上です。この曲は男女の恋の歌なのですが、間奏で軍国主義を思わせる台詞が不自然に挿まれています。歌詞が軟弱であると当局から目をつけられたためではないかと言われています。昭和13年という時代を反映していますね。

 

←前の記事「その頃 地球の裏側では?ジリオラ・チンクエッティ」「梅雨らしくなってきましたね雨の御堂筋」→最新ブログ記事へ→

2017年

5月

31日

その頃 地球の裏側では?ジリオラ・チンクエッティ

ジリオラ・チンクエッティ「夢みる想い」原題"Non ho l'età" 1964年

さてレスリー・ゴーア(⇒ブログ)がアメリカンポップス最後の華を咲かせ、ビートルズはじめ英国音楽がアメリカに進出したころ、地球の裏側ヨーロッパはではこんな曲が流行していたのです。

イタリアにサンレモ音楽祭という歌謡祭があり、1964年の優勝曲です。
ジリオラ・チンクエッティはこの時まだ16歳。しかるに堂々たるカンツォーネ歌唱です。さすがオペラの国イタリア!優雅なメロディにラテン語圏のエキゾチックな響き。英米ポップスと異なる別世界がありました。
当時は情報伝達が遅かったので、まるで離れた土地で別文明が発展したように、音楽の流行は世界中で多種多様であったのでしょう。それが各国の音楽の個性につながっていたわけで興味深いです。なお、なぜか60年代日本ではカンツォーネ・ブームがあり、この歌は大人気だったそうです。日本における洋楽の歴史は英米だけでない事を伺わせます。(院長)

 

←前の記事「ランの花が咲きました」「若き日の東海林太郎」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

5月

17日

ランの花が咲きました

2013年10月開院のお祝いにいただいたランの花がまた咲きました。

2015年5月(2回目)、7月(3回目)、2016年5月(4回目)に続き、1年ぶり5回目の開花です。クリニックの温度など環境が居心地いいのでしょうか?ランの花に癒されています。(院長)

 

←前の記事 洋楽も聴いてます「涙のバースデイパーティ」「その頃 地球の裏側では?ジリオラ・チンクエッティ」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

5月

03日

洋楽も聴いてます「涙のバースデイパーティ」

レスリー・ゴーア「涙のバースデイパーティ」原題"It's My Party"1963年
このデビュー曲で1963/6/1にビルボード1位になりました。なんと17歳です。プロデューサーは若き日のクインシー・ジョーンズだそうです。
この曲の思い出はなぜか白黒です。きっとエドサリバンショウ(1)の白黒映像があまりに目に焼き付いているからでしょう。この映像は、ロック&ポップスの歴史やオールディーズ特集番組なんかによく使われていました。私も高校生の頃そういった番組でこの曲を知りました。
アメリカ黄金時代の象徴のような曲です。金髪碧眼の女の子(2)が元気いっぱい歌う姿に明るいメロディーとアメリカン・イングリッシュ、すべてが輝いて見えました。「It's my party イッツマ・パーリー」「Jonny has gone ジャニー・ハズガン」って真似しましたな。

この曲の2週後6/15、坂本九の「スキヤキ」が1位に入れ替わります。

年が変わって8か月後64年2月に英国からビートルズがやってきます。64年10月に公民権法が成立、65年2月ベトナム北爆が始まります。社会も音楽も米国が変わりゆく前夜の歌でした。

(1)1948-71年に放映された米国CBSの伝説的バラエティ番組。Lesley Gore "It's My Party"は1963/10/13放映。

(2)白黒画像でもはっきりわかるほどです。ところでレスリー・ゴーアを急に思い出したのは宝塚歌劇のある方に佇まいが似ているからでした。続きはまたいつか。

 

←前の記事 洋楽も聴いてます「川西能勢口の桜」「ランの花が咲きました」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

4月

19日

川西能勢口の桜

ソメイヨシノはそろそろ終わりですが、枝垂れ桜や八重桜はまだ咲いています。JR駅広場・源満仲公前の心臓カテーテル桜(2017.2.22ブログ参照)も見事に咲いていました。花があると冠動脈には見えませんね。ほかに市役所前、高速道路小花出入り口もきれいでした。駅前の八重桜もまだ見ごろが続いています。これから暖かくなっていきますね。(院長)

 

←前の記事 「春の歌 丘を越へて」洋楽も聴いてます「涙のバースデイパーティ」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

4月

05日

春の歌 丘を越へて

昭和6年 作曲 古賀政男、作詞 島田芳文、歌 藤山一郎
春の歌と言えばこれですな。古賀政男さんが明大を卒業する春、学友と満開の桜を楽しんだ帰りに作曲したそうです(1)。流麗なマンドリン合奏からは満開の桜吹雪が目に浮かぶようです。
クラシック声楽家である藤山一郎さんの正確な歌唱が、生き生きとあふれる若さを表現します。この歌の持つ明るさは藤山一郎でしか出せないといわれ、実際このあと持ち歌にした歌謡曲歌手は現れませんでした(2)。後年の天才美空ひばりも表現できなかったそうです(2)。この曲をものにした人と言えば、矢野顕子の新解釈(昭和51)を待たねばなりません。
古賀政男といえば感傷的メロディーの印象が強いですが、青春を高らかに謳いあげる曲や賑やかで明るい曲も多くて、私はこっちの方が好きなのです。

なお、写真のレコードは中学時代に小遣い叩いて買ったものです。当時でも大変な中古でしたよ(笑)。(院長)

 「丘を越えて」に関して、間奏に瀬戸口藤吉の「軍艦マーチ」(明治33)が使われていること、そして「軍艦マーチ」と「丘を越えて」を合わせると・・・「ホンダラ行進曲」(昭和38)のイントロになる、というのが大瀧詠一さんの分析です(3)。ホンダラはナンセンス系解釈、矢野顕子は脱力癒し系解釈でしょうか。

(1)古賀政男「自伝わが心の歌」展望社
(2)菊池清麿「評伝 古賀政男」アテネ書房
(3)大瀧詠一「大瀧詠一の日本ポップス伝 第3回」NHK-FM 1995.8.9放送

 

←前の記事「最近の読書「歴史で見る不整脈」感動もの!」「川西能勢口の桜」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

3月

22日

最近の読書「歴史で見る不整脈」感動もの!

「歴史でみる不整脈」原著:Berndt Lüderitz 訳:中尾葉子 医学書院

心電計を発明したアイントーベン(アイントホフェン)、房室ブロック研究のヴェンケバッハ、世界初の心臓カテーテルを自分の体で実験したフォルスマン、日本からは房室結節をみつけた田原淳、などなど、循環器のヒーロー列伝です。
当時の心電図、論文の写真が多数掲載されていて、見るたび胸が熱くなります(涙)。

この先生達がいたから、現代の医療があるのですね。
 感動の書籍でした。同業の皆様方、お勧めです!(院長)

 

←前の記事「ムッシュかまやつ下駄をならして奴がくる」「春の歌 丘を越へて」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

3月

08日

ムッシュかまやつ 下駄をならして奴がくる

昭和50年かまやつひろしさんの唄です、作曲作詞は吉田拓郎さんなのですね。
私のムッシュかまやつ原体験の曲です。街やラジオでよくかかっていました。ムッシュは拓郎さんから楽曲を提供されたものの、歌詞が古臭いので嫌々歌ったそうです。図らずも、その感情を込めない無気力な歌唱が詞のより深い世界を表現することになり、人々の心を捉えたのです。
同じ頃アニメ「ギャートルズ」も作曲しています。こっちものんびり・ほんわかした感じです。ユルい雰囲気はかまやつさんの魅力ですね。
なおGSの時代、私はまだ赤ちゃんですからリアルタイムじゃありません。大学時代にGSを集めるようになって聴きました。スパイダースのかまやつ作曲では「真珠の涙」と「夢のDC8」が院長のお気に入りです(笑)
スパイダースの他メンバーはタレント・芸能事務所社長・プロデューサー・実業家などの道に進みました。ムッシュかまやつは生涯現役ミュージシャンであり続けたのです。幸せな人生だったのではないかと思います。戦後日本の大衆音楽の大部分を見守った偉大な音楽家の御冥福を祈ります。(院長)

(ところで、内科医として煙草はお勧めしませんよ。特に両切りは強いのでいけませんね。)

 

←前の記事 「冬の風物詩;心臓カテーテルの思い出と枝垂れ桜」「最近の読書「歴史で見る不整脈」感動もの!」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

2月

22日

冬の風物詩;心臓カテーテルの思い出と枝垂れ桜

川西能勢口には枝垂れ桜が多いですね。JR川西池田の源満仲像前と川西市役所前にもあります(写真1、3枚目)。 冬の枝垂れ桜を見ると心臓カテーテル、略して心カテをやっていた頃を思い出します。心カテは循環器内科における花形の検査・治療手技です。心臓まで細い管(カテーテル)を通して冠動脈を撮影するのです(2,4枚目)。みんなこれができるようになりたくて修業しました。もう長年やっておりませんが。
ほらこの枝っぷり、よく似てるでしょう。冬桜を眺めては「これはLAD(左前下行枝)のRAO(右斜めからの撮影像)やな」とか「こっちはLCx(回旋枝)11番が閉塞しとるな」なんて枝を診断しているのです。
あとひと月もすれば冠動脈のかわりに満開の桜が楽しめます。(院長)

心カテ写真とイラスト 出典:wikipedia "Coronary catheterization"
https://en.wikipedia.org/wiki/Coronary_catheterization

 

←前の記事「春一番」は録音が2種類あります「ムッシュかまやつ 下駄をならして奴がくる」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

2月

08日

「春一番」は録音が2種類あります

今年も2月はこのレコードを飾っております(2016年2月のブログ参照)。この曲は寒さが底になり春が見えてくる時期に聞きたくなるのです。
さて「春一番」は録音が2種類あるのを御存じでしょうか?
一般的に知られているのは昭和51年のシングル盤(写真右)でこれは後発です。オリジナルは昭和50年LP「年下の男の子」1曲目に収録されたものなのです(写真左)。これが完全にロックなのであります。ドラム、特にハイハットにしびれますね。硬質なベースがリズムを引っ張り、キャンディーズには珍しいユニゾンのコーラスも硬派な印象を高めます。
当時、ファンからの要望が非常に高かったため、スタッフが社長の反対を説得してLPからシングルカットを実現させ爆発的に売れたというのは有名な話だそうです。
私は大人になってから知りました。ネットなどで検索して二つの録音を比べてみてください。(院長)
参考文献:レコード・コレクターズ 2011年 07月号

 

←前の記事「インフルエンザが流行」「冬の風物詩;心臓カテーテルの思い出と枝垂れ桜」次の記事→最新ブログ記事へ→

2017年

1月

25日

インフルエンザが流行しています

川西市医師会の報告によると1/16~22の定点21施設観察でインフルエンザは262→496件と急増しました。兵庫県感染症情報センターの報告では1/9~1/15定点あたり12.58人と注意報(10人以上)レベルです。 昨年度の流行はピーク時600-800件が5週間続きました。これを踏まえると、今年は1月末頃にピークに達し 4-5週間程度流行が続くと予想されます。みなさん、手洗い、マスク、うがいなど感染予防につとめましょう。写真はある日の午前診察時インフルエンザ迅速検査A型陽性例です。Aの所に赤いラインが出現します。(院長)

 

←前の記事「冬至ですね」「春一番」は録音が2種類あります 次の記事→最新ブログ記事へ→